私に名前をくれたひと。
動く理由をくれたひと。

――だから今日も、私はうたう。

 

よろこびのうた

開け放した鎧戸のすぐ先を、真っ白な鳥がついと滑っていった。

私は窓枠に寄りかかったまま、眼下の家並みを眺めた。古い木造の枠が、疲れたようにきしりと鳴った。海の方から風が吹いて、光に満ちた戸外の空気を運ぶ。

背後で寝台が小さく軋んだ。
私は振り向いた。グゾルが頭だけをこちらに向けて、私を見つめていた。今朝はいつもより、顔色が悪いようだ。

死に至る病だと、私も彼も知っていた。私はいつもと同じ口調で、言った。
「おはよう、グゾル」

応えが返るまでに、いくばくかの間があった。
グゾルは微笑した。

「――おはよう、ララ」
それはざらついた苦しげな声音で、無理をしていることはすぐに知れた。
けれど、私もほほえみかえした。私に心配させないために、
私のために、グゾルがそうしてくれるのだから、

だから、私は気づかない振りをしなくてはいけない。

 

彼は鏡台のうえから、艶のなくなった鼈甲の櫛を取ると、私を手招いた。
「ララ。こっちへおいで」

――これからは、ずっとこうして。

出会った頃に、かわした約束をおぼえている。
その言葉の通り、私とグゾルは今も共に在る。
櫛の間をとおる髪が、さらさらと音をたてた。

その調べはまるで子守唄のようだ。
グゾルが私にくれる、涼やかな旋律。私のための歌。

ふと視線を上げると、目の前のひび割れた鏡に、グゾルの顔が歪んで映っていた。
その瞳には、複雑な表情が浮かんでいる。

 

 

ずっと、ずっと以前、これと同じ表情を、私は見たことがあった。
昔、マテールにまだ人々が住んでいた頃、街の誰かに聞いた。
そのひとの名も顔も、もう思い出せないけれど。
その面をふちどっていた、哀しいような、嬉しいような奇妙な表情だけは、あざやかな絵の具を刷いたみたいに、はっきりと胸に残っている。

独善的、だとその人は呟いた。そのことばの意味を、私は知らない。
何が、かは知らない。
誰が、かも知らない。

けれど、その人が寂しがっている気がしたから、私は歌った。
そのために生まれたから、ほかに何もできることがないから、
私は、ただ、歌った。

 

 

「グゾル、今日は何の歌がいい?」
努めて明るく訊ねると、グゾルはこちらを見てかすかに笑った。
すると先刻までの憂鬱な色が少しやわらいだ。私は嬉しくなった。

「あなたが寂しくなくなる歌をうたうから」

私はあなたのお人形だから。
あなたのためだけに歌う、歌う、
それは何と幸福なことだろう。
繰り返すいつもの情景。
もうすぐ終わってしまう日々。

悲しくはない。悲しい、はずがない。

(…そのときは)
――私も一緒に逝くのだから。

 

今日も私はうたう。

このちいさな街に囚われたまま、空を舞う鳥よりも自由に、
晴れやかなよろこびのうたを。

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